ラヴェル、スカボロー・フェア

ドビュッシーはクローシュ-Croche氏というペンネームで評論を書いていたのだが、その活動の重要性を強調するルイ・ラロワに対して、「何も聞いていない人に向かって話して、それが何になるだろう」と書き送っていた。ラロワはのちにドビュッシーの評伝を初めて書いた人物である。

「言うべきことは確かにある。でも音楽が、隣人よりも声高に話す人々が作った小さな共和国のそれぞれに分かれている中で、誰に対してものを言えばいいのだろう。ベートーヴェンとラヴェルの間を行き来している人に!天才という、愚かでバカバカしい役回りを引き受ける人間はもういなくなった。」(10.Mar.1906 – Debussy to Laloy)

…ソナチネと鏡、そして「博物誌」を書き、後に放棄することになるハウプトマンによる歌劇「沈鐘」に取り組もうとしていたラヴェルとベートーヴェンの間に、ドビュッシーが行き来可能な道筋を見ていたことは間違いがない。それはストラヴィンスキーがまだパリに来ていなかった頃のことであった。

1908年9月、ラヴェルは3つの詩曲「夜のガスパール」を書き上げ、その最終楽章”Scarbo”をルドルフ・ガンツに捧げた。ガンツはヴァイオリンソナタ 第2番を書いたすぐあとのブゾーニに師事し、アメリカに渡りラヴェルのほか、様々なフランス音楽のアメリカ初演をし、のちにフランス政府から勲章を受けたピアニスト・指揮者である。95歳まで生きた、その長い生涯の中でウェーベルンの作品を校訂したり、指揮者としてブーレーズやケージの作品も取り上げるなど、リストからブゾーニに引き継がれた大動脈の最後を受け持った大人物であった。

ラヴェルはガンツに宛てて”Scarbo”を献呈したい旨を綴った後、以下のように書き足した。
「ある音楽に対して、それが新しいものに見えるからという理由で興味を持ちはじめて、いまはベートーヴェンのソナタの解明に勤しんでいるという、そんなパラドックスをもったヴィルトゥオーゾについて知りたいという思いがあります。」
(2 Sep 1908 – Ravel to Ganz)

…クローシュ氏がここにもいるとは思わないだろうか。

ところで、ガンツに捧げられたスカルボ -Scarboとはなんであろうか。
それは「夜のガスパール」の作者ベルトランが、コガネムシ-Escarbotから捻りだした造語であるという説がある。コガネムシは、「夜のガスパール」の他の箇所にも登場しているのだが、果たしてそれがスカルボに変貌するのであろうか。

例えば、第2曲Le Gibetにこのような箇所がある。
「私が聞くものは…風か、絞首刑を前にした者か…血の付いた髪の毛を全て抜いてしまうコガネムシか… それは鐘の音、夕日が赤く染める絞首刑の亡骸」



そして、ラヴェルが抜き出さなかったほかの箇所にも登場する。
「否!冷笑的な小人を嘲り笑い、日暮れに視力を失った蚊として、お前は夜のコガネムシの餌となる。」

 

‥言葉遊び、というのではないかも知れないけれど、同音異義もしくは同音異化とでも言うような造語が作品のタイトルとなっていること自体が、次から次へと変貌する「スカルボ」の存在の掴みどころのなさを象徴している。
もう少し続けてみたい。

Escarbotはエスカルゴ-Escargotにも見える。Escargotにかけるエストラゴン -Estragonのソースにも見える。エストラゴンはその形から「小さな竜」と名付けられたハーブのことで、サミュエル・ベケットの「ゴドー」でしゃべりまくっていたあいつの名前でもある。また、スカボローフェア -Scarborough Fairというサイモンとガーファンクルで有名な歌があるけれど、スカボローの市に行ったらある人に「継ぎ目のないシャツを作って、枯れた井戸で洗え」とか「土地を羊の角で耕せ」とか、いろいろ無理なことを伝えてくれと言ってはハーブの名前を連呼する妙な歌で、最後に「せめて、やってみるとだけ言って欲しい」と切なく訴える。
スカボローは今ではイギリスのリゾート地のひとつとして有名で、そんなスカボローの人を -Scarborianと呼ぶということだ。
スカルボリアンという人間が存在する!
どうやら、空想の世界に生きているだけではないらしい。

 

「カロ風」或いは「レンブラントとカロ風」へと、ホフマンからベルトランにエコーしたその言葉の響きと変換自体に意味があるとして、コガネムシからETを省いたものがスカルボだと考えれば、その音楽はやはり変貌する文字で書かれたのではないか。
ラヴェルの親友ヴィニェスはこの作品の初演に際して、ベルトランの全テキストを全ての聴衆に配布すべきであると主張した。

 

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2019年5月29日(水) 20:00開演
「夜のガスパール」
ピアノ: 松本和将
http://www.cafe-montage.com/prg/190529.html