ショパン、ワーグナー

ピエール・ブーレーズは、半音階法とその発展がいずれ調性を解消していく様を語るにおいて、ギリシャに起源を求め、初期バロックからモーツァルトそしてベートーヴェンまでを一括りにした後、すぐにワーグナーの名前を出して、それがマーラーとシェーンベルクそしてメシアンに受け継がれたとしている。

また、対位法についても同じで、ブーレーズはモーツァルトとベートーヴェンのあと、すぐにワーグナーの名前を出している…
ショパンはどこにいるのだろう。
ほかにも1995年のフェスティバルでのインタビューでも、ブーレーズはあからさまにショパン(横にヴォルフ並べて)を排除している。

ショパンをひとつのユニークな現象、つまり「ピアノの詩人」とだけ捉えて19世紀から20世紀にわたっての歴史からは別に置いておこうとする人はブーレーズだけではなく、そして、ショパン作品を演奏家を通してしか評価しないのは、ショパンの作品を好きとか嫌いとかに関わりがなく、そうなのである。

それは、シューベルトの即興曲の中に含まれる「ショパンらしさ」にうっとりとし、モーツァルトの幻想曲に「ショパンらしさ」を見つけて驚嘆するのと同じように、果たしてショパンの作品の中に「ワーグナーらしさ」を見つけて喜ぶことが出来るかどうか、という話なのである。

ショパンはその死後、途絶えることなく続いている大人気にもかかわらず、その意味においては全くの不人気だ。ほとんどピアノだけにしか作曲しなかったショパンと、そのほとんど逆であったワーグナーを横に並べることでしか見えてこない景色を抜きにして、ロマン派の全体像は見えてこないのではないか。

極端なことを言ってしまえば、ワーグナーは「前奏曲の作曲家」であった。ショパンもそうなのである。ショパンの4つのスケルツォは、それぞれにワーグナー的な前奏曲が配置された劇音楽であると捉えることで、その中間部のドラマ、そして壮大なコーダの存在が浮き彫りになってくる。

ドラマのあとに「前奏曲」が再現されることで、その発展形のコーダの大団円が形作られるのもまさに劇的な効果なのであって、こうして前奏曲が作品全体を形作っていること自体、著しくワーグナー的であるといえるのだ。この意味でワーグナーに匹敵するのは、ロマン派ではただショパンあるのみである。

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’17年3月10日(金) 20:00開演
「F.ショパン」~スケルツォ全曲
ピアノ:佐藤卓史
http://www.cafe-montage.com/prg/170310.html