ウィーン

WIEN

1717年5月13日。
神聖ローマ帝国におけるハプスブルク家最後の男系皇帝となったカール6世の娘として、マリア・テレジアは生まれた。ハプスブルク家の正統的な後継者でありながら、自ら皇帝には即位せず、20世紀まで続く怪物都市「ウィーン」を創始した女性である。

絵画と音楽をよくし、ダンスと乗馬にも長けた、まさに啓蒙主義時代の寵児というべきマリア・テレジアは、法律と医学をはじめとする大学改革を実施し、宮廷の求心力を維持するのに「壮大なものがなければいけない」といって、宮廷の中に劇場の舞台を整えた。

グルックはマリア・テレジアによってウィーンの宮廷楽長となり、不朽の名作「オルフェオとエウリディーチェ」などを書いた。車大工の息子であり、ウィーンに来て隙間風の入る屋根裏部屋で暮らしていたハイドンを発見し、自宅に招いて彼の弦楽四重奏を演奏させた。

ハイドンは徐々に頭角を現し、ウィーンの貴族が所有していたオーケストラを監督するようになっていたが、そのオーケストラが貴族の破産で解散の憂き目を見た後、新たな雇い主としてハンガリーのエステルハージ家のオーケストラの指揮者となり、そこで後の交響曲の原型を生み出すことになる。

マリア・テレジアのお気に入りであった政治学の教授、ゾンネンフェルスはウィーンの啓蒙主義を進めるにあたって拷問刑の廃止を訴え、それを実現させた人物で、フリーメイソンの旗手であると同時にモーツァルトの重要なパトロンであった。

モーツァルトは1785年のフリーメイソン加入後、マリア・テレジアの息子で啓蒙専制主義の皇帝となったヨーゼフ2世(映画アマデウスに出てくるあの人!)の庇護で、もともとはサリエリの台本を書いていたロレンツォ・ダ・ポンテと出会った。

翌1786年にダ・ポンテの「フィガロの結婚」を発表し、それからすぐに死んだグルックのあとをついでハプスブルク家の宮廷作曲家となったモーツァルトは、「ドン・ジョバンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」と快進撃を続けながら、だんだん貧乏になっていった。

1790年、ヨーゼフ2世(アマデウスの…)が死に、ボンでウィーンに対する思いを募らせていたベートーヴェンは頼まれもしないのに葬送の音楽を書いていた。その同じ年、エステルハージ家での30年にわたる勤めを終えてウィーンに帰ってきたハイドンは、たびたびモーツァルトと会っていた。翌年、ハイドンはロンドンに旅行し、その間にモーツァルトは死んでしまった。

モーツァルトの死を知らされたハイドンは、ロンドンから帰る途中でボンに立ち寄り、そこでマリア・テレジアの息子であるマクシミリアン・フランツの庇護下にあったベートーヴェンを自分の弟子として選び、ウィーンに連れて帰った。

1893年、マリアテレジアの娘マリー・アントワネットがフランスで処刑され、ナポレオンの時代がやってくる。

ヨーゼフ2世(アマデウスの…)のあとを継いだフランツ2世は1805年、ナポレオンに敗れて神聖ローマ皇帝の称号を放棄した。ここに神聖ローマ帝国が終結。1809年のナポレオン2度目のウィーン侵攻中にハイドンは死に、ナポレオンはフランツ2世の娘と結婚した。

ナポレオンはフランツ2世の娘と結婚してすぐに勢力を失った。その結婚を取り持ったウィーンの外相メッテルニヒはウィーン会議を通してオーストリア帝国の実権を握り、ベートーヴェンとシューベルトの死後、ウィーンの文化的空白とされる20年間を代表する存在となった。

ベートーヴェンとシューベルトはその後の20年を空白にするだけのことをした。嵐のあとの均衡、沈黙。そしてビーダーマイヤーの静かな美。ともかくその間にヨハンシュトラウスのワルツが大流行して、メンデルスゾーン、シューマン、ショパン、そしてフランツ・リストがウィーンを通過した。

シューベルトが死んだ20年後、1848年革命でメッテルニヒが失脚し、18歳のフランツヨーゼフ1世が皇帝に即位した。この若き皇帝のもと、ウィーンはリング大通りに国会議事堂と並んで国立オペラ座、ブルグ劇場や美術史美術館を擁するメトロポリスへと変貌することになる。

「壁の崩壊」
1857年 皇帝はこれまでウィーンの周りに張り巡らされていた壁を取り払う勅令を出した。写真中の赤い枠がウィーンの壁で、その周りの緑が建築禁止の地区グラシス – Das Glacis この壁の中に、モーツァルトのいたウィーンはあった。

1860年に発行されたウィーンの「都市拡大図」。13世紀以降、外敵からウィーンを守ってきた壁のあったところにリング大通りが出現している。マリア・テレジアの「壮大さ」が新たな衣装をまとって、目を開いたのである。

1862年、ブラームスはシューベルト風の弦楽五重奏曲を作曲して、壁のなくなったウィーンに持って行った。(のちにピアノ五重奏曲 作品34として出版された)

1864年、22歳の建築家オットー・ワーグナーが解放された市立公園の会館を設計してデビューした。(彼の設計通りには建設されなかった)

1869年、国立オペラ座が「ドン・ジョバンニ」を上演してオープンした。ヨハン・シュトラウス2世がオペレッタでセンセーションを巻き起こし、リング大通りは1861年に設立された「芸術家の家・視覚芸術協会」の会員によって、ますます洗練を極めていった。

ウィーンのキュンストラーハウス(芸術家の家)に出入りしていた建築家や美術家は保守的な傾向があったものの、フランスの象徴主義やアールヌーヴォーに惹かれた会員がカフェに集い、そこの常連の作家や知識人たちとの間で「青年ウィーン派」を組織した。

「青年ウィーン派」は視覚芸術協会から独立して「分離派・セセッション」を組織し、クリムトを初代会長とし、オットー・ワーグナーとカール・ヴィトゲンシュタイン(哲学者ルードヴィヒの父)の後援を得て、ユーゲントシュティールの時代を牽引することとなった。

分離派の時代
いずれ来るハプスブルク家の歴史の終焉。「ドン・ジョバンニ」から「こうもり」まで、ウィーン劇場文化がもたらした官能世界のノスタルジーと重なりあい、ウィーンの街はギリシャとビーダーマイヤーを新たになぞる直線と曲線で彩られていった。

オペラ座に革命をもたらし、室内歌曲を大交響曲に変貌させたグスタフ・マーラー。ワーグナーを室内に持ち込んだフーゴー・ヴォルフ。そしてブラームスの晩年を引き継いだツェムリンスキー、シェーンベルクからベルクとウェーベルンまで。音楽は強力な中心を獲得しつつ、その中心から融解していくことになる。

印象主義について「この上なく静かな運動をも記録する地震計」と表現したシェーンベルクは「静寂、殆ど聴こえないもの、したがって神秘的なものに惹きつけられて」これまでに聴かれたことのない音を発見した探索者という意味において、「全ての偉大な芸術家はすべて印象主義である」と断じた。

運動の持続を前提としない断片の音楽。主和音が存在することで初めて認識されるはずの不協和音それ自体が解体されるようになり、その存在のダイナミズムから解放された。その空気の全てが、まだ存在したハプスブルクの宮廷に流れている空気と同じものであった。想像を絶する世界である。

息子のルドルフ皇太子の自殺と、妻エリザベートの暗殺。かつて18歳だったハプスブルク最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はすでに70歳を越えて、宮廷の中で煮込み肉とジャガイモ、そして一杯のシャンパンだけの禁欲的な食卓についていた。

過去との決別―ヒステリーの蔓延―フロイト―無意識の発見―過去の探求。
シェーンベルクが「諸原則の死の舞踏」を含む壮大な合唱交響曲を書いている最中に、ハプスブルク最後の皇帝は、物語の終止符を自ら打った。

第一次世界大戦がはじまった。

ヨーロッパに偉大な時代をもたらしたウィーン。
そのノスタルジーと京都の街は無縁ではない。